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第1話 『あきれカエル』(日本編)

 京都に一匹のカエルが住んでいた。ある時、大阪見物をしたいと思ったそのカエルは、ノソノソ、ノソノソと、やっとの思いで京のはずれの天王山までやってきた。

 一方、大阪からも、京都見物をしようと天王山に登ってきたカエルがいた。「やあ、あんたもお隣の都を見物にきたのか!」山頂で鉢合わせした2匹のカエルは互いにその夢を語り合ったが、「ところで、こんなに骨を折ってやってきてもまだ半道だ。これから都まで行ったらヘバッちゃうな。さいわいここは天王山の頂上だから、背伸びをすればここからでも、お互い京・大阪を一面に見渡せるじゃないか」そうだそうだと、二匹はその場でさっそく、ピーンと背を伸ばし、期待に胸をふくらませて遥かかなたを眺め合った。

  やがて、京都のカエルが言った。「ナーンダ。音に聞こえた大阪も、見れば京都と何もかわらないじゃないか!」こんどは、大阪のカエルが言った。
「こっちもだ。花の都と言うけれど、京都も大阪とまったくおんなじだ!」ガッカリした2匹のカエルは、そしてまた、ノソノソ、ノソノソと帰って行ったとサ。

 さて、これは不思議。 彼らは互いに、まだ見ぬ隣の都を見たはずなのに・・・。
実は、カエルの目は背中の方向についている。だからピーンと体を伸ばして眺めたものは、なんのことはない、いま自分達がやってきた方角だったのである。これは江戸後期の心理学者・柴田鳩翁の講話集「鳩翁道話」にある話だ。
 
 そして、鳩翁はこう警告する。
「このカエルのように、いくら物事を一生懸命見つめても“目のつけどころ”が違っていてはなんにもならない。

 「時は金なり」というと、日本人は「時間がもったいない」という意味に取る。しかし、悠久の歴史を持つ彼らには、そういう感性はない。むしろ、交渉に時間をかけて設けることこそが、彼らにとって「時は金なり」なのだろう。

 では反対に、“目のつけどころ”が的を射ているとどんなふうに凄いか? カエルが出たついでに、今度はウマやイヌに登場してもらおう。

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